日本の有名な水泳選手
戦前から活躍した古橋廣之進さん
古橋廣之進さんは、1823(昭和3)年、静岡県に生まれました。
小学校の水泳部に入り学童記録をマークしましたが、太平洋戦争が激しくなって、水泳どころではなくなりました。
さらに砲弾工場での作業中、左手を旋盤にはさまれ、中指の第一関節から切断する事故に遭います。廣之進は「もう泳ぐことができない」と泣き暮れました。
戦争が終わると日大に進学して、なんとか水泳を再開しました。
1947(昭和22)年、中指切断のハンディを乗り越え、日本選手権の400m自由形で4分33秒4をマークします。
当時、日本は国際水泳連盟に加盟していませんでしたので、公認はされませんでしたが、世界記録を上回るタイムでした。
世界記録を上回る
翌1948年、ロンドン五輪の開催がありましたが、日本は参加できませんでした。
日本水泳連盟は、ロンドン五輪の競泳決勝と同じ日に日本選手権を開催。
廣之進は、400mと1500mの自由形で、金メダリストの記録と当時の世界記録をともに上回り、敗戦直後の日本で国民的ヒーローとなりました。
「フジヤマのトビウオ」として日本国民の誇りに
その翌年、日本が国際水泳連盟に復帰すると、廣之進はアメリカに招待され、3種目で世界記録を樹立。
「フジヤマのトビウオ」と呼ばれ、絶賛されました。
廣之進の活躍は、戦後の復興に乗りだした国民の誇りであり、希望でした。
晩年はスポーツの普及と発展に貢献
1952年、廣之進は、ようやくオリンピック(ヘルシンキ五輪)に出場できました。
多くの国民が廣之進の金メダルを期待しましたが、すでに選手としてのピークをすぎており、本来の泳ぎができませんでした。
落胆する国民に、実況中継をしたアナウンサーが語りかけました。
「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないでください」「日本の皆さまは温かい気持ちをもって、古橋を迎えてやってください」
現役引退後は、日本水泳連盟や日本オリンピック委員会の会長も務め、水泳はもちろん、さまざまなスポーツの普及と発展に大きく貢献しました。
20代で正社員への就職・転職
岩崎恭子さん
中学1年で全国大会優勝
岩崎恭子さんは、1978年に静岡県沼津市に生まれました。
姉が水泳をしていて、「私も泳ぎたい」と5歳でスイミングに入りました。
3歳上のお姉さんも水泳が得意で、地域では表彰台の常連選手。
かなりの負けず嫌いだった恭子も、姉を目標に練習に励み、どんどんタイムを伸ばしていきました。
小学生時代の恭子は、長距離走もかなり速かったそうです。
陸上の長距離選手にならないかと誘う人もいましたが、水泳で自己ベストを伸ばすことの方がうれしかったそうです。
水泳が楽しくて、せっせとプールに通っていました。
やがて、平泳ぎで全国レベルの選手となり、中学1年の時、全国大会で優勝します。
バルセロナの代表候補に
そして、その翌1992年には、バルセロナ五輪の代表候補として、200m平泳ぎで2人目の代表の座を姉妹で争うことになりました。
母親は「バルセロナは姉で、その次のアトランタ五輪は恭子で」と願っていたそうですが、最終的には中学2年の恭子が代表に選ばれました。
バルセロナ五輪で、恭子は、あまり期待されていませんでした。
当時の世界記録保持者のアニタ・ノールとは大きな差があり、世界ランキングも14位でした。
水泳界でも、バルセロナ五輪の経験を次のアトランタ五輪で生かしてくれればいいという雰囲気で、本人も「決勝(8人)に残ればいい方だと思います」とインタビューに答えていました。
14歳で金メダルを獲得
ところが、本番を迎えると、恭子は予選から絶好調でした。
現在からは考えられませんが、オリンピックなのに屋外プールで、恭子はゴーグルもしていません。
それでも、予選で後半に驚異的な追い上げをして自己ベストを3秒も縮め、日本記録をマークしました。
恭子も「隣の人(アニタ・ノール)にどんどん追いついちゃうから、すごいビックリして」と話していました。
決勝では、半分の100mを3位で通過。すぐに2位に上がり、先頭をゆくアニタ・ノールに迫ります。
最後の25mで持ち前の持久力を発揮して並び、タッチの差で金メダルに輝きました。
恭子の記録2分26秒65は、当時の日本記録であり、オリンピック記録でした。
「今まで生きてきた中で一番幸せです」というコメントも話題になって、恭子は、一躍国民的アイドルとなりました。
現役引退して母親に
その一方で、恭子にとっては、この中学2年での記録が、生涯ベストとなります。
それ以後は、どんなに練習に励んでも自己ベストを上回ることができませんでした。
4年後のアトランタ五輪にも出場しましたが、メダルに手は届かず、その2年後、20歳という若さで現役引退しました。
引退後はスポーツコメンテーター、日本オリンピック委員会や日本水泳連盟の委員として水泳の普及と発展に尽くしています。
結婚して子どもも生まれ、最近はテレビのバラエティ番組で見かけることもあります。
テレビ番組で「今まで生きてきた中で一番幸せだったことは何ですか?」と問われ、「母になったこと」と答えていました。
稲田法子さん
ベビースイミングから選手へ
1992年のバルセロナ五輪で、岩崎恭子選手と同じく中学2年生で代表に選ばれたのが、稲田法子選手でした。
初めてのオリンピックは、背泳ぎの100mで12位、200mで15位でした。
金メダルを獲得した岩崎選手の陰に隠れて国民の注目は集めませんでしたが、水泳界では将来を大いに期待されました。
もともと、稲田選手が水泳を始めたのは、喘息を少しでもよくするためだったといいます。
ベビースイミングから始め、せっせと練習に通ううち、選手コースに入りました。
そして、14歳でバルセロナ五輪にも出場するトップ選手になったのです。
ところが、その4年後、高校3年の時には国内選考会で敗れ、アトランタ五輪には出場できませんでした。
新たな気持ちで2000年のシドニー五輪を目指す
当時、競泳選手のピークは高校時代といわれていたこともあり、オリンピックに出られないショックで抜け殻のような状態に陥ったそうです。
それでも、大学に進んでいた仲間が、自己ベストを更新しているのを見て、稲田選手も早稲田大学へ進学。新たな気持ちで2000年のシドニー五輪をめざしました。
そして、みごとに代表に選ばれ、100m背泳ぎで5位入賞を果たしました。
さらに、2001年の世界水泳の50mで銅メダルに輝き、2004年アテネ五輪にも出場(11位)して現役を引退しました。
アメリカ留学から現役復帰
現役引退後は、コーチの勉強をするため、アメリカに留学しました。
そこで、いかにも楽しそうに泳ぐ人たちと接し、「自分もあんなふうにもっと楽しんで泳ぎたい」と思うようになりました。
同時に、自分が水泳を本当に好きだということも改めて認識し、水泳への情熱がふつふつと沸き上がってきたそうです。
2010年、31歳で本格的に復帰し、4月の日本選手権で4位に。
30代になると、20代前半の頃に比べて疲れやすいので、練習時間は4分の1に減ったそうです。
また、パワーでも若い人にはかなわないので、いかに水に乗り、効率よく泳げるかを追求しています。
2012年のロンドン五輪には出場できませんでしたが、2015年の日本選手権の50mではみごとに優勝を果たしました。
現在は引退していますが、年齢の壁に挑んだ気迫は水泳ファンの心に刻まれています。