有名なプロゴルファー

男子の有名プロゴルファー

「世界の青木」と呼ばれた青木功

日本の有名なプロゴルファーといえば、1980年代に揃って活躍し、「AON」と並び称された青木功、尾崎将司、中嶋常幸の3人でしょう。

青木功は、戦争中の1942年、千葉県我孫子市で生まれました。

中学を卒業すると、ゴルフ場へキャディとして就職します。

キャディをしながら、ゴルフの練習を続け、21歳の時、2回目の受験でプロテストに合格しました。

プロになった当初は、あまり勝てませんでしたが、プロ12年目で、ようやく日本ツアーの賞金王に輝きます。

そして、技術的に安定した15年目からは4年連続で賞金王に輝き、日本のトッププロとなりました。

プロ生活が10年を過ぎてから、急に強くなったのは、当時、巨人の人気選手だった王貞治と親しくなり、その懸命に努力する姿を見て、ゴルフに取り組む姿勢を改めたからでした。

プロ16年目の1980年、全米オープンで「帝王」と呼ばれたジャック・ニクラウスと死闘を繰り広げ、2位となりました。

ニクラウスが「100m以内なら青木が一番うまい」と発言したことで、世界のゴルフファンにも注目される存在になりました。

翌年にはアメリカツアーのライセンスを取得。

1983年にはハワイアンオープン、ヨーロッパオープンなどに優勝し、日本でも大きな話題になりました。

日本ツアーで通算51勝は、歴代2位の大記録で、日本プロゴルフツアーの永久シード権保持者です。

「ジャンボ」と親しまれたジャンボ尾崎

青木の最大のライバルとして活躍した尾崎将司は、終戦直後の1947年、徳島県で生まれました。

子どものころから野球少年で、徳島海南高校(現海部高校)時代はエースとして1964年のセンバツ大会で優勝しています。

翌年、プロ野球の西鉄ライオンズへ入団しましたが、プロ野球の世界では力不足を痛感し、3年間で引退しました。

周りの人たちに勧められ、ゴルファーに転向してから3年後の1970年、23歳でプロテストに合格しました。

ゴルフではすぐに才能を発揮し、プロ2年目の1971年、早くも日本プロゴルフ選手権で優勝します。

その後も順調に勝利を重ね、日本プロゴルフ界の第一人者に昇りつめました。

その豪快なプレーぶりにファンも多く、「ジャンボ」の愛称で親しまれました。

日本ゴルフツアー通算94勝、賞金王12回は、いずれも歴代1位です。

海外ツアーにはあまり参戦しませんでしたが、弟や後輩たちと「ジャンボ軍団」も結成し、日本のプロゴルフ界を常にリードしていました。

初めて年間賞金額が1億円を越えた中嶋常幸

中島常幸は、1954年、群馬県に生まれました。

10歳からゴルフを始め、19歳で日本アマを制し、2年後の1975年、プロテストに合格しました。

才能が開花したのは1980年代になってからで、1985年には日米で6勝しました。

この年、日本のプロゴルファーで、初めて年間賞金額が1億円を突破して話題になりました。

その後も、「世界で5本の指に入る美しいスイング」と称賛された正確なショットで、国内外で活躍。世界ゴルフランキングで4位にランクされたこともあります。

中島は、大変な努力家としても知られています。

後輩に「1日何球打つの?」と尋ねて、後輩が「3000くらいです」と答えると、「数えられるうちは練習と言わない」と答えたというエピソードが残っています。

日本ゴルフツアー通算48勝は、歴代3位にランキングされています。

現代の日本男子を引っ張る石川遼

若いころから活躍し、現在男子プロゴルフ界を引っ張っている石川遼選手。

高校生になった2007年にアマチュアながらツアー初出場・初優勝を達成し、15歳245日での優勝は世界最年少優勝記録でギネスに認定されました。

さらに、プロ転向後の2009年には日本最年少賞金王となり、この年のジャパンゴルフツアー表彰式で、史上初の9冠を達成する大活躍。

2013年からはアメリカの男子ツアーでの戦いを始めました。

しかし、結局アメリカツアーでの優勝は果たせず、予選落ちする試合も珍しくはありませんでした。

さらに、アメリカツアーと並行して参加していた日本ツアーでも苦戦を強いられ、2014年までの2年間で優勝は国内での1回のみ。

2016年8月のRIZAP KBCオーガスタゴルフトーナメントを最後に優勝からも遠ざかり、さらに腰痛の悪化で長期離脱を余儀なくされるなど、石川遼選手の時代の終焉したかにも見えました。

しかし、そこで終わらなかったのが天才・石川遼選手。

2018年に日本ツアーに本格復帰し、日本ツアーの選手会長に最年少で就任。

ファンサービスの向上などゴルフ人気の向上に積極的に取り組む姿勢を自ら示します。

一方で、岐阜、千葉で行われた地方オープンで優勝、ツアー大会でも2位に入るなど、徐々に復活の兆しを見せます。

そして迎えた、2019年7月の国内メジャー大会、日本プロゴルフ選手権。

最終日までもつれた試合は、韓国・黄重坤選手との痺れるプレーオフに突入。

最後は、石川遼選手が劇的なイーグルパットを沈め、涙の復活優勝を飾りました。

この優勝を皮切りに、この年3勝を挙げて賞金ランキングも3位まで浮上。

若き才能は、厳しい状況に負けずに時を過ごして凄みを増し、再び輝き始めています。

女子の有名プロゴルファー

初代「女王」と呼ばれた樋口久子

日本の女子プロゴルファーの先駆者と呼ばれるのが、1970年代から80年代にかけて「女王」と呼ばれた樋口久子です。

1945年、埼玉県川越市の出身で、高校時代、当時、日本のトッププロだった中村寅吉と知り合い、ゴルフに興味を持ちました。

高校卒業後、ゴルフ場のスタッフとして就職すると、働きながら練習を重ね、1967年、第1期女子プロテストに合格しました。

その翌年には、日本女子プロゴルフ選手権とTBS女子オープン(現在の日本女子オープン)の2大タイトルを獲得。

それ以後も、この2大タイトルを毎年のように独占し、「女子プロゴルファー」といえば、誰もが「樋口久子」と答えるほど有名な存在になりました。

1977年には、全米女子プロゴルフ選手権に日本人として初優勝を果たし、アメリカのゴルフファンにも「チャコ」と親しまれました。

優勝回数72回は、日本の女子プロの歴代最多です。

1980年代に「女王」と呼ばれた岡本綾子

樋口久子の跡を継いで「女王」と呼ばれたのが、岡本綾子でした。

高校、社会人とソフトボールで活躍し、国体優勝のご褒美として憧れのハワイへ行きました。

そこでゴルフと出会い、帰国後、「アメリカへ行けるかもしれない」とゴルファーに転向しました。

ゴルフ場に就職し、働きながらゴルフの練習を続け、2年目の1974年、2度目の受験でプロテストに合格しました。23歳の時でした。

プロ1年目にして、美津濃トーナメントで初優勝を飾ります。

ソフトボールで鍛えたお陰で、男子プロより飛ばすと評判になり、実力も順調にアップ。

1981年には樋口久子を抜いて、初の賞金女王になりました。

その1981年には、日本の女子プロで初めて本格的にアメリカのLPGAツアーに参戦。

1987年には、アメリカ人以外で初めてLPGAツアーの賞金女王となり、1992年までに17大会で優勝しました。

日本女子ゴルフツアーで44勝して、日本ツアーの永久シード権を獲得しています。

また、樋口久子とともに、世界ゴルフ殿堂入りも果たしています。

世界ランキング1位は韓国出身

2019年の女子世界ランキング1位は、韓国のコ・ジンヨン選手です。

コ・ジンヨン選手は、7歳からゴルフを始め2013年に韓国女子プロゴルフ協会に入会。

2015年に全英女子オープンで2位に入り、世界に名乗りを上げると、その後、2017年からはLPGAに参戦。

2019年にはANAインスピレーションで初のメジャー大会制覇を成し遂げると、エビアン選手権でメジャー2勝目を上げました。

この年4勝を挙げ、プレイヤーオブザイヤーと賞金女王に輝いたコ・ジンヨン選手。

今後の活躍からも目が離せません。