陸上選手のセカンドキャリア・引退後の生活
陸上選手の引退理由
怪我による引退
陸上選手が引退する理由のひとつに、怪我による引退があります。
学生時代から長年にわたって競技を続けていれば、怪我はつきものです。
ランナーであれば、膝やアキレス腱、足底筋膜炎、シンスプリント。
投てき種目であれば、腰や手首、肩、ひじなどを痛めることが多いです。
こうしたけがを理由に競技を離れることを決断することは多くあります。
モチベーションの低下
体に異常がなくても、モチベーションが低下してしまい、競技を続けられないと引退を決断する選手もいます。
青山学院大学時代からその才能が注目され、卒業後も中国電力の陸上部に入った出岐勇大さんは、25歳の若さで引退を決断しました。
この時、出岐さんは「陸上に強い思いがなかった。きついことが耐えられなくて陸上を続けることができない」と告白したそうです。
才能があっても、その競技に対してのモチベーションがなくなってしまう。
競技が好きな気持ちがあっても、大きな大会まで厳しい練習に耐え、その大会が終わった後に燃え尽きてしまうなど、精神的な部分がついていかないことも引退を決断するきっかけになります。
20代で正社員への就職・転職
陸上選手の引退年齢
陸上選手の引退年齢は、早い人で20代後半、一般的には30代です。
体力的に限界を感じたり、重い故障をしたことで、引退を決意する選手が多いようです。
20代後半で引退する人は、たいてい故障で競技が続けられなくなったというケースです。
女子選手は、結婚を機に引退を決断する場合もあり、20代での引退は珍しくありません。
陸上選手のセカンドキャリア
会社の社員として残る選手も
企業の陸上部に所属していた人には、そのまま会社に残る人もいます。
もともと、企業の陸上部に所属する選手には、社員として雇われている「社員選手」と、陸上競技に専念する「契約社員」の2通りがあります。
社員選手は、競技引退後も、そのまま社員として会社に残れます。
一般社員と同じように各課に配属され、サラリーマンとして生活していきます。
契約社員は引退=退社
それに対して「契約社員」は、陸上競技を引退すると、その企業との契約も切れます。
新たな仕事先を見つけることになります。
契約社員には、引退後、監督やコーチなど指導者になる人がいます。
所属した企業で、新たにコーチや監督して契約する人もいれば、他の企業や大学などに誘われて指導者になる人もいます。
教員になる人も目立つ
引退後、教員の採用試験を受けて高校や中学の教員になる人もいます。
ただし、教員になるには、教員免許が必要です。
そのため将来のことを考え、大学在学中に教員免許を取得している選手もいます。
教員免許は引退後に取ることも可能です。働きながら大学へ通ったり、通信制の大学で取得する人もいます。
20代で正社員への就職・転職
陸上選手が引退前に準備しておくことは
指導者になれるのは一部の選手
指導者になれるのは、ほんの一部の人に限られます。
オリンピックや世界陸上で活躍したり、日本記録を出した選手でも、引退後、指導者になれるとは限りません。
指導者になるには、選手としての輝かしい実績か、指導者としての資質が必要だからです。
高校や大学時代から、陸上部のキャプテンに選ばれるなどリーダーシップをもつ人。
あるいは、トレーニング理論などをよく勉強して、チームの中でアドバイス役だった人は、引退後、指導者に誘われやすいようです。
指導者として誘われる人は、幅広い人脈も持っています。
選手時代から社交的で、いろんな人と接している人は、指導者への道も開けるでしょう。
年齢的に転職も可能
30代で引退すれば、年齢的にも転職が可能です。
スポーツ用品メーカーやスポーツ洋品店、スポーツ施設などスポーツ関連の仕事に就く人もいます。
また、家業を継いだり、知人に誘われたり、紹介されたりして、陸上競技とはまったく関係のない職業に転職する人も少なくありません。
結婚や恋人をもつのは引退後
日本の陸上界には、昔から「恋人ができると成績が下がる」と考えている人が少なくありませんでした。
とくに1990年代までは、30歳になると引退する選手が多かったため、恋人と付き合ったり、結婚するのは引退後と考えられていました。
ミセスランナーの先駆け
その1990年代、資生堂に所属していた長距離ランナーの「鈴木晴美選手」が、同僚の弘山勉さんと結婚しました。
そして、結婚後も、ミセスランナーとして競技生活を続けたのです。
夫がコーチ、妻が選手の二人三脚で、1996年のアトランタ五輪から3大会連続でオリンピックにも出場しました。
当時、「弘山晴美選手」は、若いランナーの憧れの選手ともなっていました。
弘山選手は、40歳まで現役ランナーとして第一線で活躍し、41歳で出産しました。
結婚・出産後に活躍する選手も
ママさんランナーの先駆け
「ママさんランナーの先駆者」と呼ばれるのは、マラソンの赤羽有紀子選手です。
高校時代までは、とくに目立つ選手ではありませんでしたが、城西大学で鈴木尚人監督の指導を受けて力をつけ、ユニバーシアードのハーフマラソンで銀メダルを獲得しました。
大学卒業後、ホクレンに入社すると、3年後、25歳で大学時代の同級生と結婚しました。
赤羽選手は、結婚と同時に引退するつもりでしたが、周囲の励ましで、夫をコーチに競技を続けました。
夫の指導を受けて日本のトップランナーへと成長する一方、2006年に女の子を出産します。
出産後、再びレースに復帰し、出産から1年3ヵ月後には国際千葉駅伝の代表に選出されました。
そして、日本のアンカーとして走った最終区で、みごとに世界のトップランナーだったヌデレバ選手を逆転して優勝の立役者となりました。
その後もママさんランナーとして走り続け、北京五輪にも5000mと1万mの両方で出場しました。
さらに、マラソンに転向し、世界陸上の2009年ベルリン大会と2011年テグ大会の日本代表にも選ばれました。
34歳で走った大阪国際女子マラソンで2位に入ったのを最後に現役引退しましたが、赤羽選手は、むしろ、出産後に日本のトップランナーへと成長し、大活躍しました。
本人の意志と家族の協力があれば続けられる
現在のところ、日本の女子選手が結婚や出産後も、第一線で活躍しているのは長距離ランナーだけです。
しかし、世界的にみれば、短距離はもちろん、投てきや跳躍競技でも活躍している選手がいます。
本人の意志と家族の協力があれば、結婚後も競技を続けることは可能です。
とくに、女子マラソンの世界では、「出産後の方が強くなる」ともいわれており、今後もミセスランナーやママさんランナーの登場が待たれています。