日本語教師をしていて気を付けていること
日本語を学んでいる人はすでに自国で学校教育を受けている方々です。
なので、日本語学習者はすでに自国の常識や当たり前が自分の中にあります。
当然、日本で学校教育を受けた私やあなたにもあります。
もちろん、みんなが気持ちよく生活していくためにはその国や地域のルールに従うことが必要です。
でも、いろいろな国の人達が集まった時、それらは固定観念となり邪魔になることがあるのです。
国籍なんか関係ない
私は以前、ニュージーランドの高校でアシスタントとして日本語を教えていました。
ニュージーランドは移民の国なので、教室にはたくさんの国籍の生徒たちが集まっていました。
生徒たちは各々の国の格好をしていました。
サモア、フィジー、トンガなどの島国の生徒たちは巻きスカートを履き、ヨーロッパの国から来た生徒たちはピアスを開けていました。
また、アフロの生徒もいれば、坊主頭の生徒もいました。
男子校でしたし、私よりも体が大きく、見た目も厳つい生徒もたくさんいました。
登校初日、私は恐る恐る教室に入って様子を伺いましたが、すぐにみんな日本が大好きなごく普通の男の子だと気づきました。
私が分からない英語は日本語で説明しようとしてくれたり、私を楽しまそうとパラパラを踊ってくれた生徒たちもいました。
どの子も個性的で、私にとってはとても楽しい時間でした。
体の大きさも、肌の色も、母国語も違う生徒たちが何十人も一つの教室にいるのは日本ではなかなか見ることのない光景です。
日本で唯一そういう光景を目にできるとしたら、それは日本語学校だと思います。
「みんな違って、みんないい」
そんな世界が教室の中には広がっています。
一人の人間として見る
私がニュージーランドやオーストラリアで生活をしているときに「日本人女性は小さくて、目が細くて、あまり笑わないイメージがあるけど、あなたは違うね。」とよく言われて、とても珍しがられました。
外国人は日本人女性は”優しい”とか”男性に尽くす”などと言う方がいます。
でも、それはかなり昔の日本人女性像です。
そういう日本人女性のイメージと私を比べられるたびに、私は「makiという人間ではなく日本人としてしか見られていない。」という気持ちになりとても寂しくなりました。
国や人種のイメージは誰しもあります。
でも、私が感じたようにその固定観念が相手を傷つける可能性もあります。
日本語教師は「教師」と「学習者」との信頼関係が大切です。
相手と信頼関係を築くにはその人を他人と比べないで、一人の人間として見る必要があります。
だから、日本語教師は学習者とは○○人としてではなく○○さんとして接するようにしています。
同じ国で生まれて育っても、好きなことも、考え方もみんな違います。
日本語教師は外国人に日本語を教えることが仕事ですが、そのためにはどんな国の人とも良い人間関係を築くことが大切です。
日本語教師も学習者もたくさんの違いを楽しみながら日本語を勉強できる教室が私の理想です。
日本で上手く生活ができるように支援する
日本に住んでいる学習者に日本のルールや文化を教えることも日本語教師の仕事の一つです。
例えば、行列の間に外国人が割り込んだとします。
すると、周りにいる日本人はどう思うでしょう。
外国人だから仕方がないと思ってもいい気持ちはしないですよね。
日本人にだって、ルールを守らない人はたくさんいます。
だから、学習者には日本のルールを絶対に守らないといけないとは言いません。
だた、知っててルールを破るのと、知らなくてルールを破るのとでは意味が違います。
知らなくてルールを破ってしまって日本人から白い目で見られるほど悲しいことはありません。
それは日本語も同じです。
絶対に人前で言ってはいけない言葉はどの国にもあります。
日本語学校にはアニメやマンガが好きな学習者がたくさんいて、セリフで分からない言葉があるので教えてほしいと授業の後によく言われます。
ある時、学習者の口から絶対に女性の前では言ってはいけない言葉が飛び出してきました。
その学習者が他の人の前でその言葉を発する前に止めることができたのは幸いでした。
とても紳士的な方なのに、本当の意味を知らずにその言葉を発しただけでその方の印象がとても悪くなってしまうところでした。
このように、学習者にとって日本語教師は何でも聞ける身近な存在であり日本で上手く生活するための支援者でもあるべきだと私は思っています。
日本語学校の教室の中には他にはない空間が広がっています。
国境を越えて、言葉を越えて、性別を越えて、いろいろな国の人達が日本語という一つの目標に向かって頑張っています。
日本語教師はこのような空間で”平和”と”幸せ”を感じながら授業をしています。
そして、国際交流や世界平和に貢献できる職業だと私は思っています。